書くことは再び愛すること

瞑想家・画家・歌人・元読書家(自称)

【記憶だけで書く書評】ラメッシ・バルセカール『誰がかまうもんか?!』

誰がかまうもんか?!
 

  古代インド哲学の一派である「ノンデュアリティ(非二元)」は、精神世界本の一大カテゴリを占めている。その系譜に入るのか、厳密な話は分からないが、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、プンジャジ(パパジ)、ガンガジ、アジャシャンティ、ステファン・ボディアンなどなど、ノンデュアリティの流れを汲む「悟り本」はたくさん読んだ。しかし、ぼくにとって、マハルシはつかみどころがなく、マハラジは哲学的すぎた。あとはほとんど覚えていない。ただ、ラメッシだけは、妙にしっくりきた覚えがある。

 悟りを求めている主体は存在しない。みたいな語り口は、ほかのノンデュアリティに似ているが、「自由意志」という切り口を強調するのがラメッシの特徴だ。自由意志は存在しない、神の意志でなければ何一つ起こらない、神の意志でなければ悟りは成就しない、人間にできることは何一つない。云々。まさに、タイトルの通り、「誰がかまうもんか?!」と、なりおおせる。悟り?そんなもん、どうでもええわ!というわけだ。まあ、すぐにそう思えれば事は簡単なのだが、そういうわけにもいかない。探求者たちは、次々に質問する。

 とりわけ、自由意志は存在しない、という点に探求者は抵抗を覚えるが、ぼくはむしろホッとした。ここが最大のポイントだと思う。さらにラメッシは、悟りへの「手段」「メソッド」を提供しないのが良い。マスターたちには2タイプが存在し、真理だけを話すタイプと、真理+そこに至る道(手段・メソッド)を教えるタイプがいるのだが、後者は一見親切に見えて、迷宮入りする危険がある(しかし、探求者は必ずこの罠にはまる。はまらない人は、探求する必要がないのだから。釈迦でさえそうだったのだ)。あくまでメソッドや手段は方便なのだが、方便の探求へと、探求の次元がすり替わってしまうのだ。これを徹底的に避けたのが、クリシュナムルティである。