書くことは再び愛すること

瞑想家・画家・歌人・元読書家(自称)

【記憶だけで書く書評】『新約聖書 福音書』

  たしか、OSHOの講話集で初めて知ったのだったが、ぼくは、ルカの福音書にある「放蕩息子のたとえ話」が大好きだ。ある人に息子が二人いて、兄は真面目で働き者、弟は放蕩者だった。この弟が、父の死後に与えられる財産を生前に要求し、父は兄弟二人に分け与えた。弟は遠い国へ旅立った。そこで放蕩の限りを尽くして財産を使い果たした。加えて飢饉に襲われ、当時、最底辺の仕事であった豚の世話係をして食いつなぎ、豚の餌を食べたくなるほど飢えに苦しんだ。やっとのことで我に返った彼は、父のもとに帰り、許しを乞う。父は放蕩息子を許した。それどころか、一番良い服を着させ、手に指輪をはめさせ、足に靴を履かせ、肥えた牛を料理して祝宴を催した。しかし、兄は黙っていない。自分は真面目に働いているのに、子ヤギ一匹もくれたことはないと抗議する。そこで、父は言う。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」。

 一般的にこの話のテーマは、「神の憐れみ深さ」だと言われるが、ぼくには「自己探求の物語」にしか見えない。放蕩息子は、「自分とはなにか?」という問いを抱えて遠国に旅立ち、答えを外側に求めてボロボロになり、やっとのことで「自分」に帰ってきた。旅に出ようと出まいと、自分は自分である。しかし、自分を見失ってこそ、自分を発見できるのだ。もともと持っているものを手に入れるためには、一度それを失わなければならない。「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」という父の喜びは、自己発見の喜びであり、自分は自分で良いのだという喜びであり、まさに、家に帰ってきたという比喩がふさわしい。苦行は無意味だと悟り、菩提樹の下に座り、光明を得た釈尊の物語と同じだ。彼は、出家するまでは王宮に暮らし、放蕩を尽くしていたのだが。

【記憶だけで書く書評】道元『正法眼蔵』

  当たり前のことだが、ぼくは『正法眼蔵』が読めない。全く歯が立たない。もしこの書を完全に読めるなら、その人は、果てしなく輪廻を繰り返して宇宙の経綸を知った人生のマスターであり、人類を救うためだけに地球に立ち寄った救世主だろう。と言いたいくらい、全く読めない。もちろん、読めない本というのはたくさんあるが(むしろ、そういう本がほとんどなのだが)、読めないとわかっていて、にもかかわらず、いつかすらすら読めるようになりたいと思い続けることができるのは『正法眼蔵』だけだ。一生かかっても無理そうなのだが、それでいいのだ。それでいいと思える、読めなくてもいいと思える書を持つのも案外良いもので、ぼくにとって『正法眼蔵』は、永遠の憧れの書である。しかし、本当のことを言えば、この本にはなにも書かれていない、ということだけは分かっている。読んで理解すべきことなど、なにもない。そうでなければ、この本は間違っている。そういう本だ。だから、読めなくても全く問題ない。それでも、読んでみたいのだ。

 しかし、なぜ道元禅師が坐禅をすすめたのか、理解できない。南宋からの帰国後に著した『普勧坐禅儀』には、「所謂坐禅は習禅には非ず。唯是れ安楽の法門なり」とある。坐禅は習禅ではない、つまり「行」ではない。それなら、なぜ坐禅などする必要があるだろう? 本当は必要ないのだ。クリシュナムルティは、瞑想すら否定する。その瞑想こそが、邪魔になるからだ。OSHOはそれを踏まえたうえで、あくまでも方便として瞑想をすすめる。瞑想は不要だが、それが本当にわかるまでは瞑想が必要だ、というわけだ。一方、道元禅師は、「只管打坐」と言って、坐禅を必要な修行として固定してしまう。方便だとは言わない(ほんとうは言っているのかもしれないが)。もちろん、方便を固定しなければ宗教など成り立たないので、「方便を固定するという方便」を用いたのかもしれない。

【記憶だけで書く書評】唯円『歎異抄』

  求道というものを自力と他力の二つに分け、日本においてそれぞれを代表させるなら、前者は禅であり、後者は浄土真宗だと言っていいだろう。一方は「行」、他方は「信」の道である。浄土真宗の「根本聖典」は『教行信証』だが、こちらは信の宗教らしからぬ哲学っぽさで、哲学の苦手なぼくは途中で投げ出してしまった。一方の『歎異抄』は、親鸞滅後に出た異端の説を嘆くという体で弟子の唯円が師の教えを回想する書で、とても読みやすい。

 ところで、浄土真宗は日本最大の仏教宗派だが、始祖親鸞の教えは、かなり紙一重なところがある。たとえば、「本願ぼこり」という言葉だ。「南無阿弥陀仏」と唱える人を必ず浄土に迎えるというのが阿弥陀仏の本願だが、「ならば、どんなに悪いことをしても、念仏をしていれば大丈夫なのだ」という主張が出てくる(鎌倉時代の人も今っぽい考え方をするものだと微笑ましくなる)。親鸞滅後には、これを「本願ぼこり」と呼んで批判する説が出るのだが、これに対して、唯円親鸞)は、「善悪の心はいずれも過去の業によって起こるのだから、本願ぼこりの人が往生できない、というのは間違っている」と反論する。

 要は、究極のところ、善も悪も、その人の責任ではないということだ。これは、社会道徳ではなく宗教の次元の話だから全く正しい。ただ、ぼくは、日本最大の宗派である浄土真宗が主張するこの「本願ぼこりOK説」が、現代日本人を俗物化させる温床を与えているのではないか、という疑いを持っている。阿弥陀仏を素朴に信じた時代には、その「信」によって、生死を超えた場所から人生を見る視点が生まれたのかもしれないが、現代人には(良くも悪くも)その「信」がないので、阿弥陀仏など存在する余地はなく、よって死を見ることもなく、人生いかに生きるかという問いも生まれない。死に際になってから仏教を勉強し始めるというのが、今の日本人の典型のように思えるのだ。

【記憶だけで書く書評】コリン・ウィルソン『アウトサイダー』

  コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』のようなアウトサイダー論は、案外ありそうで無い。全く内容は覚えていないが、Amazonで紹介文を見ると、カミュヘミングウェイゴッホニーチェドストエフスキーウィリアム・ブレイクといった面々が紹介されている。ぼくとしては、やはりヘンリーミラーを入れて欲しかったが、出版が一九五六年で、まだミラーが現役バリバリの頃だったので仕方ないだろう。

 ミラーは聖俗両面をあわせ持ち、色とりどりの感情を味わい、本当の意味で経験豊かな人間だ。親鸞の言う「非僧非俗」を地で行ったと言いたい。少なくともその路線で生きた。人間の暗黒面が前面に押し出された二〇世紀を生きたという意味で、ミラーは巨大な非僧非俗的人間だ。暗黒時代に真善美への憧れを持つのは自殺より困難なのだ。文学はその本来の性質からしアウトサイダー的だが、本物のアウトサイダーが書いた作品はほとんどないように思う。

 本物のアウトサイダーは、アウトサイダーというカテゴリーにすら、自分を入れることができない。王道を歩んでいるからだ。決して主観や妄想ではなく、客観的に見た「王道」だ。王道を歩むからこそアウトサイダーなのであり、それゆえアウトサイダーアウトサイダーたらしめるのは大多数の大衆であり、アウトサイダーはいつだって正気だ。正気すぎるのである。彼らが社会に適応するのが難しいのは、正気を受け止められる人間がほとんど存在しないからだ。正気というのは、いわば現実である。アウトサイダーは現実を発散する。そして、ほとんどの人間にとって、現実というのは情報量が多すぎて、脳がフリーズしてしまうのである。一方、アウトサイダーは正気を失うことが「できない」。握った鉛筆を手放して落下するのを見れば、地球には引力が働いているのだと認めるだろう。そして、「引力が存在する!」と主張して、社会から排除されるのだ。

【記憶だけで書く書評】G.K.チェスタトン『正統とは何か』

 西部邁から保守思想に入った人間は、次に福田恆存に出会い、必然的にチェスタトンにぶつかる。一般的にチェスタトンは、「ブラウン神父」シリーズの推理小説家として知られているのだろうか? ぼくにとってチェスタトンは、まず第一に保守思想家である。ところで、文学と保守思想という組み合わせは、大変相性が良い。福田恆存しかり、T.S.エリオットしかり。「人間とはどういう存在なのか」という探求をもとに奏でられる保守思想にとって、まさにその人間を扱う文学は、最高の養分供給源だからだ。

 あらゆる思想は、そのような過程を経て(つまり、「人間とはなにか?」を考えたうえで)作られるのでは? と、ついつい思ってしまうが、案外そうでもない。たとえば古典派経済学では、早い話が「人間は損得で動く」という人間の「モデル」を前提にして組み立てられている。しかし実際の生きた人間は、損得以外で動く場合もあるのだから、この「モデル」は、人間の一側面を切り取って純粋化した架空の存在にすぎない。現在の経済学の主流は、この系譜を引き継いだ新古典派経済学で、政策の基調をなし、ぼくたちの生活を形作っている。と考えれば、学問を、「象牙の塔」の営みにすぎないと軽視すると痛い目に遭うし、実際痛い目に遭っている。経済学者ジョーン・ロビンソンの、「経済学を学ぶ理由は、経済学者にだまされないためだ」という名言を思い出そう。

 文学が保守思想と相性が良いのは、文学は人間を全体として扱う(扱おうと努力する)からだ。複雑なものを複雑なまま見ようとする。もちろん、人間のあらゆる側面を完全に表現した文学は存在しないし、そもそも「完成された人間」など(死んだ人間を除いて)存在しない。しかし、自らの認識の及ぶ限り把握しようとする。それで十分だ。むしろ、それで十分、と理解することは、自己認識の不完全性の自覚と表裏一体である。保守思想には、自己懐疑がビルドインされているのだ。

【記憶だけで書く書評】OSHO『禅宣言』

禅宣言

禅宣言

  • 作者:OSHO
  • 発売日: 1998/03/01
  • メディア: 単行本
 

  OSHOの最後の講話集。タントラ、仏教、老荘スーフィズムをはじめ、あらゆる聖典・聖者を語ったOSHOが、最後に取り上げたのが禅だった。この終わり方も、OSHOのメッセージだと思う。『禅宣言』では、禅を語ったいろいろな人物を取り上げ、批判を加えていく(という内容だったと思う)。禅とは何か、という問いは、禅にとって不毛である。何ものでもないからだ。禅とは何でないか、という問い方が唯一可能であり、おそらく『禅宣言』の構成もそこを踏まえている。そして、何が禅でないかを語り終えると、もうそこにはなにもなく、OSHOは肉体を去って行った。こういう死に方を計画していたかどうか、わからないが、ちょっとかっこよく終わりすぎて、OSHOらしくないとすら思えてくる。もっと不完全なまま、ということはつまり、可能性を残して死んでいく方がOSHOらしいような気もする。

 書店には、「禅に生き方を学ぶ」系の本がたくさんあるが、学ぶことなど何もない、というのが禅であり、禅は生き方など教えていない。禅が語るのは、死に方である。再生のための死である。新しく生命を更新するためには、古いものは徹底的に死ななければならない。そして、古いものが本当に死んだとき、そこに空白が生まれ、エネルギーが流れ込み、新たな生命を形作っていく、そのありようが図らずとも新たな生き方となるのだから、「生き方」など全く考慮しなくていいのだ。学べるのは過去のものだけである。全く学ぶことなく生きろ、と禅は言う。これは、かなり危険な生き方だ。学習は過去の延長であり、現在を過去によって塗りつぶしていく。だから、禅は反復を許さない。ぼくたちは、すでに学びすぎている。だから、死ぬ必要がある。毎日死ぬ必要がある。そうしてこそ、現在を生きることができる。坐禅なんて、本当は意味がない。坐禅をしようとする動機を見るべきだ。それこそ、座禅だと僕は思う。

【記憶だけで書く書評】ラメッシ・バルセカール『誰がかまうもんか?!』

誰がかまうもんか?!
 

  古代インド哲学の一派である「ノンデュアリティ(非二元)」は、精神世界本の一大カテゴリを占めている。その系譜に入るのか、厳密な話は分からないが、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、プンジャジ(パパジ)、ガンガジ、アジャシャンティ、ステファン・ボディアンなどなど、ノンデュアリティの流れを汲む「悟り本」はたくさん読んだ。しかし、ぼくにとって、マハルシはつかみどころがなく、マハラジは哲学的すぎた。あとはほとんど覚えていない。ただ、ラメッシだけは、妙にしっくりきた覚えがある。

 悟りを求めている主体は存在しない。みたいな語り口は、ほかのノンデュアリティに似ているが、「自由意志」という切り口を強調するのがラメッシの特徴だ。自由意志は存在しない、神の意志でなければ何一つ起こらない、神の意志でなければ悟りは成就しない、人間にできることは何一つない。云々。まさに、タイトルの通り、「誰がかまうもんか?!」と、なりおおせる。悟り?そんなもん、どうでもええわ!というわけだ。まあ、すぐにそう思えれば事は簡単なのだが、そういうわけにもいかない。探求者たちは、次々に質問する。

 とりわけ、自由意志は存在しない、という点に探求者は抵抗を覚えるが、ぼくはむしろホッとした。ここが最大のポイントだと思う。さらにラメッシは、悟りへの「手段」「メソッド」を提供しないのが良い。マスターたちには2タイプが存在し、真理だけを話すタイプと、真理+そこに至る道(手段・メソッド)を教えるタイプがいるのだが、後者は一見親切に見えて、迷宮入りする危険がある(しかし、探求者は必ずこの罠にはまる。はまらない人は、探求する必要がないのだから。釈迦でさえそうだったのだ)。あくまでメソッドや手段は方便なのだが、方便の探求へと、探求の次元がすり替わってしまうのだ。これを徹底的に避けたのが、クリシュナムルティである。